箱根超え 箱根旧街道の史跡
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 東海道は、古くは都を起点とした古代七道(東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海)の一つであり、旅人たちは御殿場〜仙石原〜足柄峠〜南足柄市関本のルートを通って箱根山を越えていきました。鎌倉幕府が開かれると、湯坂山、浅間山、鷹巣山の尾根を通る湯坂路がメインルートになりました。
 江戸時代になると江戸日本橋を起点にした五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が幹線道路になり、現在旧街道と呼ばれる元箱根〜畑宿〜湯本が官道に定められました。明治維新を迎えるまで約390年間、数多くの旅人が行き交った街道には、いまもその息づかいが残っています。
旧街道石畳 
 当初はハコネダケを編んで敷いた竹道でしたが、延宝8年(1680)に幕府によって石畳に整備されました。
現在残っている「石畳」は、文久3年(1863)に14代将軍・徳川家茂が上洛する前年に大規模な整備が施されているものです。箱根旧街道は、国指定の史跡になっています。
○かながわ古道50選
一里塚 
 江戸幕府は江戸日本橋を起点に一里(約4km)ごとに塚を作って道標にしました。箱根には湯本茶屋、畑宿、箱根の3ヶ所にありましたが、現在その形態を知ることができるのは、平成10年(1998)に復元された畑宿の一里塚(直径9m・高さ約4.5m)です。
杉並木 
 旧街道の杉並木の多くは明治の末に車道開削の費用に充てるために伐採され、いまでは芦ノ湖畔に残るものだけになってしまいました。樹齢300年を越える杉並木は、一時は樹勢が衰えて枯れてしまうのではないかと危惧されましたが、20年ほど前から取り組まれてきた土壌改良の成果が上がり、樹勢も回復してきています。
箱根関所 
 箱根関所は元和5年(1619)に現在の位置に置かれました。“天下の嶮”に設けられた箱根関所は四大関所の一つとして江戸幕府の体制を支える上で重要な役割を果たしました。近年、幕末に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書「相州箱根関所御修出来形帳」が発見され、平成19年(2007)完成を目指して完全復元工事が行われています。国指定史跡。
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関所破り
 関所を破ると磔か獄門という厳しい掟があり、箱根で関所破りをして処刑された事例もいくつかあります。そのなかでも悲劇として語り継がれているのが「お玉という娘」と「祭文読みの一行の男4人」の話です。
[ お玉 ]
 元禄15年(1702)2月10日、お玉は伊豆から江戸に奉公に出たもののホームシックにかかって手形を持たずに関所の裏山・屏風山を越えようとしたところを見つかり、4月27日に処刑されました。お玉の首を洗ったといわれる「なずなが池」は、いつのころからか「お玉ヶ池」と呼ばれるようになりました。池畔にははかなく消えた少女の霊を慰める石碑が建てられています。
[ 祭文読みの一行 ]
 天保11年(1840)5月15日、箱根の裏関所・仙石原関所に手形を持たない祭文読みの男4人、女2人の一行がやってきました。祭文読みとは世の中で起きたことをおもしろおかしく節をつけて三味線語りをする芸人です。仙石原関所は、他国の女は一切通さないという決まりがあるため、一行は関所破りをしてしまいました。しかし、一人の老婆からの通報で表沙汰になり、磔の刑に処せられました。彼らを悼んだ里人は亡骸を貰い受けて宮城野の宝珠院へ埋葬し、この塚を「祭文塚」と呼んでその霊を慰めました。女たちは髪を切られて門前払いとなりましたが宝珠院で尼になり、男たちの霊を弔ったと寺に伝えられています。
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